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2019.8.1 粥菜坊の調理人のことがわかるページ(随時加筆中)

粥菜坊は、夫婦で営んでいる小さな飲食店です。ホールを担当しているのは夫の私山本で調理は全くできず、調理は妻の招ひとりで担当しています。二人とも飲食業務の経験はなく、私の前職は会計監査で、招の元々の職業は看護師です。二人とも、どこかで修行をしたこともないまま2004年に開いたのが粥菜坊。私は軽い気持ちで招に店を持たせたところ、想像だにしない料理の技術や知識には驚かされ続けられることになります。食材や調味料を量ることはないし、初めて作るものでも味見もしません(手触りや見た目で分かるそうです)。500人規模の炊き出しでも何ら量りもせずに、ひとりでわずかな時間で作り上げていくのです。そのうちに、招の半生には中国だからこそあり得た飲食に絡むたくさんの経験があったことがわかっていきます。日本ではあり得ない、ただただ驚くことが多く、ここでは、夫という立場を離れて、率直にそれらを皆さんにお伝えしたいと思います。

もくじ

● 西関での幼少期
遊びといえば料理の日々
西関(サイグァン)という特別な街
粥菜坊の腸粉の味の秘密

● 農村での少女期
毎日3食、村全員の食事を作った日々
野菜や魚.家畜を育て、塩以外なら何でも作った経験
医者からも見放された病を救ってくれたよもぎ

● 広州に戻った青年期
広州に戻って自宅を自分で建築
看護師の時代
市場での経験
そして来日

● 日本での粥菜坊の開店そして今日
なぜお粥のお店だったのか
とにかく観察好き
粥菜坊での楽しい日々

●西関での幼少期

遊びといえば料理の日々

招が生まれたのは1962年4月。その頃、中国では文化大革命という大混乱がまさに始まろうとしている時期で、幼少時は外は危険で不用心に外出できない時代に入っていました。社会の上級層の人たちは「吊るし上げ」の憂き目にあい、紅衛兵と呼ばれる10代20代の子供青年達の暴挙が横行し、内戦とも言えるような状態だったのです。公園で遊ぶなんてとんでもないし、親が外出する時も、子供が勝手に外に出れないよう家の外側から鍵をかける時代でした。そんなわけで、招は遊びたい盛りに遊びは限られ、5歳の時には見よう見まねで始めた料理が唯一の遊びとなっていったそうです。昔の厨房ですから、火に薪(まき)をくべながらご飯も炊くし、炒め物もします。背が足りないので、椅子にのってやります。そうして、5歳にして家族の食事を作り、母親が仕事から帰るのを待つ日々を過ごすようになっていきます。


(写真) 1枚目:一番右が幼少時の招。2&3枚目:中国の昔の厨房はこんな感じです。横から薪を入れて火の加減を調節します。

西関(サイグァン)という特別な街

食で有名な広州ですが、その中でもさらに食で有名な場所があります。西関(サイグァン)という旧市街です。今でも広州酒家、陶陶居、蓮香楼といった名だたる老舗レストランが立ち並び、広州の地元では「食在広州、味在西関。」(食は広州に在り、味は西関に在り)という言葉があるほどです。昔は商売の成功者の立派なお屋敷が軒を連らね、若い女性たちは「西関小姐」(西関のお嬢さん)と呼ばれてもてはやされていました。その地域はいったん文化大革命により荒廃してしまいますが、現在では荒廃したお屋敷のひとつが西関民俗博物館として復元され、観光地として整備され賑わいをみせています。そんな西関ですが、実は、招はその西関の生まれ。幼少期はその西関で過ごし、下の写真のようなお屋敷にすんでいたそうです。そして、生まれながらにして、周辺にある有名レストランの味を覚えていきます。


(写真) 広州西関の中心と言える上下九路。「騎楼」と呼ばれる建築様式が有名です。2&3枚目:広州の老舗・広州酒家と蓮香楼。


(写真) 西関には小さな飲食店もいっぱいあるし、路上では今でもおじさんおばさんが調理をして飲食物を販売してたりします。1枚目:雲呑麺のお店、もちろん使ってる麺は竹昇麺。2枚目:おばさんが売ってたのは牛雑(もつ)。3枚目:それを買って道で食べたりします。




(写真) 1~9枚目:西関民俗館の館内の様子。招はこんなお屋敷に住んでいたそうです。懐かしくてい大いにはしゃいでいました。 10枚目:再開発されて奇麗になった館外周辺の様子。

粥菜坊の腸粉の味の秘密

香港でも広州でも多くの場所で腸粉を見ますし、日本でも広東料理のお店に行けば腸粉を置いてるところもあります。でも、腸粉なら同じ味かというとそうではありません。腸粉自体の味は、お米の味がほのかにするぐらいで、美味しさのポイントはタレにあります。実は、粥菜坊の腸粉のタレの味は、幼少期に西関のコックさんに教わった味だそうです。招が幼児にもかかわらず料理をするので、コックさんが可愛がってくれたし、面白がって料理を教えてくれました。そのひとつが有名店で大人気だった腸粉なんです。そのお店はその後大きくなって多店舗展開し、今の腸粉はもう当時のものではなくなってしまいましたが、今では招が粥菜坊でその味で作っています。彼女もその味が大好きだったからです。50年前の西関の味が、遠い日本の川崎で今も生きていると言えるのかもしれません。


(写真) 今でも故郷に戻れば、必ず腸粉を食べます。

● 農村での少女期

毎日3食、村全員の食事を作った日々

招が初めて父親と会ったのは5歳の頃で母親に連れられ、2晩を船で過ごし暗い中会いに行ったのを覚えているそうです。文化大革命が始まり、父は商売で成功していたというだけで収容所に送り込まれてしまっていたのです。数年後、収容所から出てきた父親は広州に戻れず、教育として農村での業務が割り当てられます。兄弟や親戚は家族離散となり、招は父親に付いて広州を後にし農村で生活を始めます。7歳の時です。農村からは、父親は農業に従事させられるだけでなく、村の食事の世話をさせられます。そうして、招は父親と一緒に約150人いた村人の食事を一日3食用意することになるのです。私はこれを聞いて、震災時に数百人規模の炊き出しでも平気で引き受けて一人でこなしたり、粥菜坊での膨大なメニューを一人で調理していける能力に納得しました。


(写真) 1&2枚目:約150人の村人が食事をした広場。広場の片隅にあった井戸は今もあります。3枚目:5世帯で住んでいた家の入口。4枚目:背中側が招が両親と住んでいた小さな部屋の入口。5&6枚目:部屋の内部。

野菜や魚.家畜を育て、塩以外なら何でも作った経験

農村では、罪人の娘ですから、こどもの間でも何かといじめを受けたそうです。叩かれたり蹴られたりは日常的だし、教科書は投げ捨てられるし、学校では1年生から3年生へ飛び級したものの、嫌気がさして3年生でやめてしまいます。日本では、考えにくいでしょうが、彼女の学歴は小学校中退です。それからは、野菜を育て家畜や魚の世話をして一日を過ごします。でも、少女期はなんでも興味津々。どの動植物のことにしても、本からの勉強ではなく、生の観察や実際の経験で詳しくなっていきます。農村なので、農作物は豊富。でも、そこは貧困な時代の中国。農村となると更に貧困で、自分でお肉を食べれるのは年に2、3回といった貧しい生活でした。食材や調味料を買うなんてままならず、塩以外なら自分で何でも作ったそうです。塩だけは、自分で作れなかったので、片道2時間かけて買いに行きました。学校で勉強する必要がなくなった分、たっぷり農業に時間をかけることができ、そこで培った知識をひとつひとつ蓄え、それらが後々料理に大きく役立つようになっていきます。


(写真) 野菜や魚を育てた畑や池

医者からも見放された病を救ってくれたよもぎ

そんなある日、いじめっ子に川に突き落とされます。その晩、高熱が出て、そのまま全身麻痺に陥ってしまいました。手も足もどこも動かせず、顔も麻痺して歪んでしまったそうです。母親に広州の病院に連れて行かれて何箇所もの病院で診察を受けますが、なす術なし。両親とも諦め、植物人間を覚悟したといいます。招は口も動かせず、何の反応もできないものの、耳は聞こえます。だから、会話は聞こえるし、親が諦めたのも分かりました。ところが、実姉の旦那さんがただひとり諦めなかったのです。中国医学の本を読みあさり、自分に任せるよう母親に直談判したのです。義理兄に任せた治療が、あるアパートの6階でスタートしました。よもぎを使った漢方を作ってくれて毎日服用し、よもぎを使ったお灸で身体を手入れし、10歳にしてアルコール度数60度近い白酒も毎日飲みました。そして、奇跡的に42日後、アパートの6階から手すりをつかまりながらでも1階まで階段を降りることができたそうです。この時の経験で、中国医学や漢方への関心を強く持ち、この後ずっと、現在に至っても欠かさず漢方の勉強を続けるようになります。

● 広州に戻った青年期

広州に戻って自宅を自分で建築

1976年、約十年にわたる文化大革命が終わりを告げ、やっと広州に戻る許可が出ます。招が14歳の頃です。広州市内に戻ったものの、元々住んでいたお屋敷も、所有していた数多くの家具や骨董品も手元には戻ってきません。住む場所もなく親戚の場所を転々としますが、各場所で肩身が狭くて長居なんてできません。そこで、とうとう我慢できずに始めたのが家の建築だそうです。建築と言っても、日本のようにのこぎりで木材を切って組み立ててというような作業ではありません。中国では、セメントを作りレンガをひとつひとつ積み上げる作業で家を作っていきます。でも、上下水道の整備や電気の配線などが必要ですし、しかも現代とは違ってどれも原始的な作業ですから、そんなに簡単ではありません。そして、作り始めてから約3か月、ついに3階建ての自宅を完成させます。粥菜坊の店舗は、初め全く何にもないスケルトン状態で借りましたが、彼女は飲食店での経験がゼロでも、狭いながら自分でベストな厨房を作ります。大変ながらも自宅を建築した経験があったからだそうです。


(写真) 1枚目:広州に戻った頃の招(左側)。2&3枚目:溶かしたセメントでレンガをひとつひとつ積み上げ、糸を使って水平であることに注意しながら、こんな感じで家を作っていきました。

看護師の時代

しばらくしてから、招は知人の紹介により広州にある大きな病院で看護師の仕事を始めます。もちろん専門の知識が必要な仕事ですから、看護学校での勉強と並行して従事したと言います。産婦人科に勤務したので、多くの赤ちゃんの誕生に携わりましたし、妊婦さんや新米ママさんには多くの健康面・栄養面のサポートをしたそうです。だから、今でも粥菜坊でそんなお客さんに気がつくと声をかけ、時には気がつく限りのアドバイスを送ります。歩き方や妊娠中の体型から男の子か女の子かわかるそうで、そんな話しもしたりします。そして8年。人の命を助けるやり甲斐のある仕事ではあるのですが、時に気分が滅入る業務もあり、看護師の仕事を退職することになります。その間に経験した医学の知識は今でも財産となり、漢方の勉強は趣味となってずっと続けています。今では漢方の講師をやれる資格も取りましたし、粥菜坊での料理にはたくさんの漢方の知恵が入り込んでいます。


(写真) 看護師をしていた20歳頃の招。父親の誕生会にて。

市場での経験

招は、8年携わった看護師の仕事を辞めましたが、両手があれば何でもやって生きていけると思っていたそうです。そこで、農村での知識や経験があるから、市場で野菜や肉を売り始めます。広州の人間は皆、舌がこえてますから目利きがきかなければ市場で生き残ることはできません。毎朝3時4時といった時間に仕入れに行き、野菜だけでなく、まるまる一頭の豚などの家畜や魚をリヤカーで運びます。朝6時には店頭でさばき、それを吊るしたり並べたりして売り始めます。ゆっくりさばいてたら仕事を始められませんし、家畜の各部位には相当詳しくないと仕事になりません。後に、中国で調理師の資格をとりますが、考査のうちの一つが、15分以内に生きているアヒルを調理して試験官の前に料理を出すもの。招は受験者の中で一番速かったそうで、それも市場でのこの経験があったからだと言います。肉は、各部位の美味しさや特徴を知っていると、料理の発想がどんどん拡がるので、料理への関心をどんどん引き出して、苦しいながらもとても楽しく市場での仕事をしたといいます。

そして来日

父親も文化大革命の終えんで広州に戻ってきており、衣料品製造と電球製造で会社をおこし、再度成功を収めていました。父の晩年は招もそのビジネスに一緒に取り組んでおり、父が1989年に他界すると、彼の意向で招が社長を引き継ぎます。ところが、そのことがギャンブル好きの実兄と財産・金銭が絡むどろどろの確執を招いてしまいます。母親もその15年前に他界しているため思い残すこともなく、日本に新しい境地を求めて来日することになります。

●日本での粥菜坊の開店そして今日

なぜお粥のお店だったのか

招が来日したのは1990年10月。夫の私は、当時海外で働いていて、日本に戻ったのが1996年1月。海外生活の最後2年は香港だったため、帰国後、広東語を話す機会が欲しくて、広東人の集まりに顔を出してたのがきっかけで知り合いました。私は、海外では世界でも有数の大きな会計事務所で働いていて、特に香港で働いていた最後の2年はプレッシャーと孤独感とで押しつぶされそうな日々でした。そんな中、香港では多数存在するお粥屋さんに、帰宅途中で立ち寄ることが多々あり、ビールを飲みながら食べるお粥と料理は、すさんだ心を和らげてくれました。「日本にも、こんな風に心を癒してくれるお粥のお店が身近にあったらいいなあ。。」そんな思いが頭によぎったものです。さて、それから7、8年の歳月を経て、日本で招と知り合い所帯を持ち、初めてお粥を作ってくれた時のこと。ひと口食べて、すっかり忘れていたその時の思いが頭に蘇ったわけです。おりしも、招は友達作りのために広東料理教室を始めていて、その勢いでお店でも出そうかという話が出ていた時。「そうだ、お粥のお店だ!」こうして、夫である私の要望によりお粥のお店が生まれたわけです。


(写真) 1枚目:当時私が働いていた香港の中環(セントラル)にある太子大厦(プリンス・ビルディング)。2枚目:セントラルへの通勤に使用していたエスカレーター。片道20分以上、23基を乗り継いで通っていました。3枚目:当時私の心を癒しに立ち寄ったお粥屋さん。

とにかく観察好き

招に出逢って交際を始めると、食や薬草に対する彼女の好奇心、探究心に感心し続けられることになります。デパ地下やスーパーではガラスの囲い中で作ってる人が見えるところがありますが、そんな場所では買物はそこそこに、厨房の中の人の動きを熱心に見つめています。店員さんに魚をさばいて貰う時も、手さばきをじっと見つめています。キッチンの中が見える飲食店に入れば、しっかりキッチン内が見える場所に座って、店員さんの行動を観察しています。当時はまだ、後々飲食店を出すなんてこれっぽっちも考えてない時期だったので、ただただ自分の趣味で、少しでも自分の技術、知識を高めたいだけで、そうだったわけです。自宅のすぐ近くが多摩川ですが、多摩川には薬草が溢れているらしく、呆れるほどずっと観察しています。彼女を見ていて、料理は机上の勉強や人から指導を受けるだけが勉強じゃないとつくづく思い知らされていました。
そして、彼女が今でも大切にしている勉強の場のひとつに、食品の展示会があります。毎年2月に幕張で開催されている展示会には、2日間お店を臨時休業して出かけます。面白い食材を探すためなのは勿論ですが、料理の発想を拡げてくれるヒント、新たな技術を習得できるヒントが詰まっているからだそうです。お気に入りは、地方産品ゾーン。日本中から集まる食品業者さん達の「こんなの作っています、あんなの新しく作りました」という発表会みたいなゾーンです。ポイントは、製造者さんと直接お話できるということ。いろんな工夫のお話はとても勉強になるそうです。そうした工夫や技術、知恵を粥菜坊に取り入れられるかどうかを考えながら時間を惜しんで歩き回るのが、とても楽しいと言います。


(写真) 1枚目:展示会は毎年欠かさず見に行きます。2枚目:信頼できる本当の杏仁豆腐も展示会で見つけました。。

粥菜坊での楽しい日々

粥菜坊は広東粥の専門店として始まり、当初は10点ほどのお粥、5種類ほどの餃子、そして少しの小皿料理しかないランチタイムだけのお店でした。でも、中国で体得したことをベースに、日本でも勉強を重ね、これも作れるんじゃないか、あれもできるんじゃないかと思いを巡らせ、ひとつひとつ実現させているうち、今あるような誰でも驚く量のメニューになってしまいました。粥菜坊には紹介したい料理がまだまだいっぱいあります。これからも自ら楽しみながら、皆さんが楽しめる料理を出し続ける粥菜坊でありたい、招はそう考えています。

中国では歴史に翻弄されたとも言える様々な経験をしてきた招。ですが、世の中を恨むことなく、そのひとつひとつを大切にして全力で取り組んできたからこそ、今の粥菜坊があります。飲食店はお客さんの幸せな笑顔が見れて、自分もとても幸せと招は言います。これからも、体力が続く限り、粥菜坊で楽しい日々を過ごしたいと思っているはずです。


(写真) 1枚目:オープン前日のお披露目パーティーでは、入れ替わり立ち替わりで、およそ150人を招待してご馳走を振舞いました。2枚目:以前は料理教室の生徒さんやお客さん十数名連れて、”ライチ狩り&広東料理満喫ツアー”を年1回5年にわたり実施していました。3枚目:川崎市の地元店イチ押しコンクールで優勝し、市長から表彰されたこともあります。

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