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2018.12.1 メディア紹介 もくじ

2018.12.1 西関での幼少期

遊びといえば料理の日々
私が生まれたのは1962年4月。その頃、中国では文化大革命という大混乱がまさに始まろうとしている時期で、幼少期の時は外は危険で不用心に外出できない時代に入っていました。社会の上級層の人たちは「吊るし上げ」の憂き目にあい、紅衛兵と呼ばれる10代の子供達が勝手気ままに人殺しをしても罪に問われない、そんな内戦のような状態だったのです。公園で遊ぶなんてとんでもないし、母親が外出する時も、私が勝手に外に出れないよう家の外側から鍵をかけていました。そんなわけで、遊びたい盛りに遊びは限られ、5歳の時には見よう見まねで始めた料理が唯一の遊びとなっていったんです。昔の厨房ですから、火に薪(まき)をくべながらご飯も炊くし、炒め物もします。背が足りないので、椅子にのってやります。そうして、5歳にして食事を作り、母親が仕事から帰るのを待つ日々を過ごすようになっていきます。

西関(サイグァン)という特別な街
食で有名な広州ですが、その中でもさらに食で有名な場所があります。西関という旧市街です。今でも広州酒家、陶陶居、蓮香楼といった名だたる老舗レストランが立ち並び、広州では「食在広州、味在西関。」(食は広州に在り、味は西関に在り。)という言葉があるほどです。昔は商売の成功者の立派なお屋敷が軒を連らね、女性たちは「西関小姐」(西関のお嬢さん)と呼ばれてもてはやされていました。その地域は文化大革命により荒廃してましたが、現在では荒廃したお屋敷のうちのひとつが西関民俗博物館として復元され、観光地として整備されて賑わいをみせています。そんな西関ですが、実は、私はその西関の生まれ。幼少期はその西関で過ごし、生まれながらにして、西関の有名レストランの味を覚えていきます。

粥菜坊の腸粉の味の秘密
香港でも広州でも多くの場所で腸粉を見ますし、日本でも広東料理のお店に行けば腸粉を置いてるところもあります。でも、腸粉なら同じ味かというとそうではありません。腸粉自体の味は、お米の味がほのかにするぐらいで、美味しさのポイントはタレにあります。実は、粥菜坊の腸粉のタレの味は、幼少期に西関のコックさんに教わった味なんです。私が幼児にもかかわらず料理をするので、コックさんが可愛がってくれたし、面白がって料理を教えてくれました。そのひとつがそのお店で大人気だった腸粉なんです。そのお店はその後大きくなって多店舗展開し、今の腸粉はもう当時のものではなくなってしまいましたが、今では私が粥菜坊でその味で作っています。私もその味が大好きだったからです。50年前の西関の味が、遠い日本の川崎で今も生きていると言えるのかもしれません。

2018.12.1 農村での少女期

毎日3食、村全員の食事を作った日々
私が初めて父親と会ったのは、5歳の頃です。母親に連れられ、2晩を船で過ごし暗い中会ったのを覚えています。父は商売で成功していましたが、文化大革命が始まり、成功しているというだけで罪が課され、収容所に送り込まれてしまったのです。数年後、収容所から出てきた父親は広州に戻れず、教育と称して農村に追いやられます。家族は広州を追われ離散となり、私は父親に付いて広州を後にし農村で生活を始めます。私が7歳の時です。父親は農業に従事させられるだけでなく、村の食事の世話をさせられます。そうして、私は父親と一緒に約150人いた村人の食事を一日3食用意することになるのです。確かに大変ではありましたが、そんな時代があったからこそ、300~400人規模なら炊き出しも一人で調理をこなせるし、粥菜坊のたくさんあるメニューもひとりで回すことができるのです。

いろんな野菜や、魚、家畜を育てた経験
収容されていた人間の娘ですから、こどもの間でもなにかといじめを受けました。叩かれたり蹴られたりは日常的だし、教科書は投げ捨てられるし、学校では1年生から3年生へ飛び級したものの、嫌気がさして3年生でやめてしまいました。日本では、考えにくいでしょうが、私の学歴は小学校中退です。それからは、野菜を育て家畜や魚の世話をして一日を過ごします。でも、少女期はなんでも興味津々。どの動植物のことにしても、本からの勉強ではなく、生の観察や実際の経験からかなり詳しくなりました。学校で勉強する必要がなくなった分、たっぷり農業に時間をかけることができ、そこで培った知識をひとつひとつ蓄え、それらが後々料理に大きく役立つようになっていきます。

医者からも見放された病を救ってくれたよもぎ
そんなある日、いじめっ子に川に突き落とされます。その晩、高熱が出て、そのまま全身麻痺に陥ってしまいました。手も足もどこも動かせず、顔も麻痺して歪んでしまいました。母親に広州の病院に連れて行かれて何箇所もの病院で診察を受けますが、なす術なし。両親とも諦め、植物人間を覚悟したといいます。私は口も動かせず、何の反応もできないものの、耳は聞こえます。だから、会話は聞こえるし、親が諦めたのも分かりました。ところが、実姉の旦那さんがただひとり諦めなかったのです。中国医学の本を読みあさり、自分に任せるよう母親に直談判したのです。義理兄に任せた治療が、あるアパートの6階でスタートしました。よもぎを使った漢方を作ってくれて毎日服用し、よもぎを使ったお灸で身体を手入れし、10歳にしてアルコール度数60度近い白酒も毎日飲みました。そして、奇跡的に42日後、アパートの6階からつかまりながらでも1階まで階段を降りることができたんです。この時の経験で、中国医学や漢方への関心を強く持ち、この後ずっと、現在に至っても欠かさず漢方の勉強を続けているのです。

2018.12.1 黄にらはどう育つのか?

◆黄にらはどう育つのか?◆
粥菜坊では、黄にらをよく使っています。黄にらと海老/叉焼の炒め、黄にらの餃子、黄にらと海老の春巻、ワンタンスープといったところです。黄色の色をしていて甘みがあり、韮とはまた違った面白い味の野菜なんです。日本ではあまり知られていないので、こんな野菜もあるんですというご紹介を兼ねてメニューで多用しています。さて、この黄にら。知っている方もそこそこいるのですが、育て方まで知っている方はそうはいません。イメージできるようにご紹介したいと思います。
写真は一面緑色の韮の畑です。その中で、何かを被せている部分にお気づきでしょうか?そうです。この部分で、黄にらを育てているんです。日が昇ってきて明るくなる前に被せ、日が沈んで暗くなったら被せたものを取ります。空気も必要なので、被せたままではダメなんです。これを毎日繰り返して育てるのが黄にら。失敗すると、普通の韮になってしまいます。大変な苦労をかけて育てる黄にらですから、スーパーでまれに見ますが高値なのに納得です。

2018.12.1 広州に戻った青年期

広州に戻って自宅を建築
1976年、約十年にわたる文化大革命が終わりを告げ、やっと広州に戻る許可が出ます。私が14歳の頃です。広州市内に戻ったものの、元々住んでいたお屋敷も、所有していた数多くの家具や骨董品も没収されたままで、手元には戻ってきません。住む場所もなく親戚の場所を転々としますが、各場所で肩身が狭くて長居なんてできません。そこで、とうとう我慢できずに始めたのが家の建築です。建築と言っても、日本のようにのこぎりで木材を切って組み立ててというような作業ではありません。中国では、コンクリートを作りレンガをひとつひとつ積み上げる作業で家を作っていきます。でも、上下水道の整備や電気の配線などが必要ですし、しかも現代とは違ってどれも原始的な作業ですから、そんなに簡単ではありません。そして、作り始めてから約3か月、ついに3階建ての自宅が完成します。粥菜坊の店舗は、初め全く何にもないスケルトン状態で借りましたが、飲食店での経験がゼロの私でも、かなり狭いながら自分でベストな厨房を作れたのは、大変ながらも自宅を建築した経験があったからだと思っています。

看護士の時代
しばらくしてから、ある人の紹介により広州にある大きな病院で看護士の仕事を始めます。もちろん専門の知識が必要な仕事ですから、看護学校での勉強と並行して従事しました。産婦人科に勤務したので、多くの赤ちゃんの誕生に携わりましたし、妊婦さんや新米ママさんには多くの健康面・栄養面のサポートをしました。今でも、粥菜坊でそんなお客さんに気がつくと声をかけ、時には気がつく限りのアドバイスを送ります。歩き方や妊娠中の体型から男の子か女の子かわかるので、そんな話しもしたりします。そして8年。人の命を助けるやり甲斐のある仕事ではあるのですが、時に気分が滅入る業務もあり、看護士の仕事を退職することになります。その間に経験した医学の知識は今でも私の財産ですし、漢方の勉強は趣味となって勉強を続けています。今では漢方の講師をやれる資格も取りましたし、粥菜坊での料理でも役立てています。

市場での経験
8年携わった看護士の仕事を辞めましたが、両手がある限り何でもやって生きていけると思っていました。そこで、農村での知識や経験があるから、市場で野菜や肉を売り始めます。広州の人間は皆、舌がこえてますか、目利きができなければ市場で生き残ることはできません。毎朝3時4時といった時間に仕入れに行き、野菜だけでなく、まるまる一頭の豚・牛などの家畜をリヤカーで運びます。朝6時には、店頭でさばいたものを吊るしたり、並べたりして売り始めます。ゆっくりさばいてたら仕事を始められませんし、家畜の各部位には相当詳しくないと仕事になりません。後に、中国で調理師の資格をとりますが、考査のうちの一つが、生きているアヒルを調理して15分内に試験官の前に料理を出すものでした。私は受験者の中で一番速かったのですが、それも市場でのこの経験があったからといえそうです。肉は、各部位の美味しさや特徴を知っていると、料理の発想がどんどん拡がるので、私の料理への関心をどんどん引き出して、苦しいながらもとても楽しく市場での仕事をこなしました。

28歳の1990年、日本に来るわけですが、中国では歴史に翻弄されたとも言える様々な経験をしました。ですが、そのひとつひとつを大切にし、全力で取り組んできたから今の粥菜坊の味があります。それを誇りに、たくさんの人に粥菜坊の料理をお出ししています。

2018.12.1 針菜という百合のつぼみ

◆金針菜という百合のつぼみ◆
金針菜は百合の花の蕾です。だから、形を見ると大きくなれば百合になっていくのがわかる形をしています。乾燥したものは漢方として使われるため、中華の食材のお店に行くと目にすることがありますが、生の金針菜はどこに行っても見ることはないはずです。皆さんにご紹介したくて輸入しているぐらいですから、苦みあり甘みありのとても興味深い味の野菜です。粥菜坊では、海老かチャーシュウをお選び頂いて一緒に炒めています。是非、一度お試し下さい。

2018.12.1 広州と「食は広州にあり」

広州は香港から車で2~3時間、珠江という河を上った所に位置する大きな都市です。今では、新幹線が開通して香港とは1時間弱で繋がっています。もちろん、大都市なので中国の中で経済でも芸術でも大きな役割を担ってますが、昔から食があまりに有名です。それは、中国全体の中でも古くから言われている「生在蘇州、穿在杭州、食在広州、死在柳州。」という言葉の中でも見てとれます。蘇州は風光明媚、杭州は絹織物の産地、広州は美味しい食事、柳は材木の産地で有名なことから、「風光明媚な蘇州で生を受け、杭州の絹織物で作った衣装を身にまとい、広州のおいしい食事を日に三度食べ、最後は柳州産の棺おけに入って死ぬのが理想的」というような意味合いです。実は、日本でも有名な「食在広州」(食は広州に在り)は、この一部なのです。中国全体の中でも、古くからこう言われてるほど食と言えば広州。このように、中華料理の中でも広東料理は一目置かれているんです。

2018.12.1  餃子が常時十数種類

◆餃子が常時十数種類◆
粥菜坊の料理は、伝統的な広東料理をベースにしながらも、固定観念にとらわれず自由に作っています。その代表例が餃子。粥菜坊の餃子は広東料理の味付けでありながら、食材はいろんな野菜を使います。今までに作ってきた餃子の数は30数余種。野菜によっては水分が多く簡単には包めません。水分を取ってしまえば包みやすくなりますが、その分、野菜の香りや味が落ちてしまいます。噛んだ瞬間、その野菜の香りがバッと口の中に広がってこそ、粥菜坊の餃子の醍醐味。醤油をつけてしまうと、せっかくの野菜の香りを損ないます。粥菜坊の餃子はお醤油はつけずに食べるのがお勧めです。 続きを読む

2018.12.1 お粥で、なぜ朝鮮人参粥が一番人気か?

◆お粥で、なぜ朝鮮人参粥が一番人気か?◆
粥菜坊のお粥の中で、一番人気なのは朝鮮人参のお粥です。多くの方が体に良いからだと思うでしょうが、単純に一番美味しいからです。朝鮮人参のクセや苦みで良い印象がない方にとっては、朝鮮人参というだけで拒否反応があると思います。でも、粥菜坊ではその先入観は無用と思って頂いて構いません。実は、朝鮮人参って高級なものはとても美味しいし、甘味もあるんです。粥菜坊の使う朝鮮人参も癖はなく、お粥の甘さと人参の甘さとのマッチングで、優しい美味しさを生み出しています。しかも、新陳代謝がすぐに始まって身体はぽかぽか。人参効果を少なからず体感できると思います。こうは言っても、信じ難く思う方も多いと思いますが、ものは試し。是非、粥菜坊で一度挑戦してみて下さい。人参の美味しさがご理解頂けると思います。

2018.12.1 焼売の真実

粥菜坊の焼売は、「焼売の真実」と名付けています。それは、粥菜坊では日本での焼売とは違い、点心の本場である広州や香港での作り方、本当の焼売の作り方で作っているからです (ちなみに、シュウマイという読み方も広東語です)。だから、粥菜坊の焼売を食べると、今まで食べてきた焼売とはかなりの違いを感じるはずです。作り方の何が違うかと言うと、挽き肉は使いません。ブロックからの手切り肉を使います。血抜きも必要であり、冷やしたり叩いたり様々な工程を経て作り上げて行くため、挽き肉を使う焼売とは、かける手間もかなり違います。玉ねぎを使うこともありません。入れるのは海老と椎茸です。粥菜坊で焼売を食べる機会がありましたら、海老や椎茸の香りを楽しむためにも醤油なんかは使わず、是非、そのままお食べ下さい。


(写真左から)豚肉はブロックからサイコロ切りにします。海老は殻を剥いて一ずつ丁寧に準備します。椎茸を細かく微塵切りにして、よく混ぜ、焼売の皮で包んでいきます。

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